勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

人間らしさはなにで決まるか (吉本隆明)


これは、何度か同じ本を手にするなかで、ある日すとんと自分勝手に腑に落ちた道理であって、何も人生を救ってくれることなんてあるわけじゃないんだけれど、ずずずと縮こまった心が広がる気もするし、書かれていない部分までをも好意的に誤読して、「よしやってやるか」と気負える道理でもあります。ちょっと敬意をこめて吉本さんの言葉を抜粋しまくります。

言葉をよく知り、よく使えて、言葉を使うだけの人間らしさを持っている人、それが統率者になります。人間の進化はどうしても、そういう方向に行くのは避けられません。
それを避けることができないならば、階級あるいは格差が生まれることは避けられないのです。それがあるから社会は成り立っているのかもしれませんが、そうすると、人間には救いはないじゃないか、ということになります。

そこで、「人間らしさ」というのはなにによって決まるのかを改めて設定するとします。
人間らしさは、文章を書くのがうまかったり、話し言葉が巧みで要領を得ていて、人をわかりやすく納得させることができて、多くの人を集めることができるとか、そういうことによって決まるのでしょうか。そうじゃないはずです。人間らしさは、そういうことじゃありません。

これは僕が勝手に自分を納得させた考え方なんですが、言葉というものの根幹的な部分は何かといったら、沈黙だと思うんです。言葉というものは、オマケです。沈黙に言葉という部分がついているようなもんだと解釈すれば、僕は納得します。

人に聞こえない言葉で言ったりやったりしていることがあります。そういう「人に言わないで発している言葉」が、人間のいちばん幹となる部分で、一番重要なところです。
なにか喋っているときは、それがいいにしろ悪いにしろ、もう余計なものがくっついているんです。だから、それは本当じゃないと思います。まして、そのオマケの言葉を、誰かがいいと思ったり悪いと思ったりするようなことは、またもっと末のことで、それはほとんどの人には関係のないことです。

人には沈黙とみえるけど、外には聞こえずに自分に語りかけて自分なりにやっていく。そういうことが幹であって、人から見える言葉は「その人プラスなにか違うものがくっついたもの」なんです。いいにしろ悪いにしろ、「その人」とは違います。

吉本隆明の「言葉のいちばんの幹は沈黙で、言葉となって出たものは葉のようなもので、いいも悪いもその人とは関係ない」という考え方はよく語られますが、ここからの帰結がまた凄い。

人間らしさをそういう風に設定すれば、わかってくることがあるはずです。その考えでいくと、おそらく人間はすべて平等であるということが成り立ちます。沈黙は、誰もが平等で同じです。口の中で思っているんだったらほとんど差異は認められないと考えていいです。多少違ってもそれは多少の問題で、幹以外の、枝葉の問題にしかすぎないという理解が可能なんじゃないでしょうか。

対談者の糸井重里はここで驚く。このことを吉本さんはいつ頃考えたのかと。
それに対して吉本隆明は、ゲーテ川端康成を例にあげながら、世間が多く知っている人のほうに価値が行くことが、なぜなんだろうと考えた、と。で、そういう評価のしかたですませちゃうことは、ダメなんじゃないかとさらに考えたらしい。

じゃあどうしておまえは文章を書いているんだ、ということになります。一等最初は、僕は、喋ってる言葉はどうしても人に通じているようには思えないと思ったことからはじまっているような気がします。聞いてる人の顔を見てても、自分が喋っていることが通じているとはとても思えなかったです。そこの疑問から僕はもの書きになったんだと思います。

あるときから僕は、失業したときからでもいいですけど、ものを書いて食おうということになりました。食えたり食えなかったり、少し儲かったとか、これはちょっと浮いたぜ、というような体験はさまざまあるわけですけど、そういうふうにやってきたということが、そもそも不平等なことでした。

自分は格差を意図してないつもりですが、そういう評価のしかたの上に乗っかっちゃったんだということになります。今でも僕はそれに乗っかっています。なにか名声を得たとか、それは僕はないつもりでおりますけれど、ときどきいい気になったことがあるかもしれないので、これは我ながら当てはまらないことだけど、意図的にはそういうことがないようにしています。

そういう評価のしかたの上では、書く言葉に価値が生まれ、食えてきたと。では、そういう評価の上での言語の価値とは何なのかと。

言語の価値という概念は、もともと経済学からきてるんですよ。ヨーロッパの言語学は、経済学とつなげて、言語に価値があるというふうに作っちゃったんです。
言語の価値というのは、つまり、簡単なことです。「いろんな言い換えができる数が多ければ多いほどのその言語の価値は高い」ということです。つまり、いろんなことを考えさせる度合いが高い作品ほど「芸術的にいい作品」なんです。

それを受け、糸井さんは、「それは交換性が高いということですね。商品論にはものすごく応用の利くロジックですね。芸術じゃなくて、商売する人が、逆にそこを勉強すればいい」と。
まったくだ。

吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜 (Hobonichi books)

吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜 (Hobonichi books)


経済圏の中での言語の価値基準。多かれ少なかれ、みんな言語によって生活し、生計もたてている。僕はそこをとても自覚している。商売の上で、形のないモノを提供する側でもあるので。その葉(言葉)をどう使うか、また、何より自分の幹をどう育てていくか。それは自己の繰り返される問答にしかない。


吉本さんは、糸井さんによくやってると思います、と言う。「虚業を実業にした」という例えで、それは大変なことで力量のいることだから、よくやっていると。たいしたもんです、と。
最後に糸井さんの言葉を。

結局、消費のところに燃焼がないから、いくら生産力上げて送り出しても意味がないんですよね。企業は、置いていかれることについて焦るのかもしれないけど、置いていかれないくらい思い出に残るものを作っていけばいいんでしょうから。