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勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

無題

「本当に考えるべき事は、地元の親の事かもしれない」
休日の仕事合間のうどんランチ。ダイシは唐突に言った。答えに窮してうーんと唸ったまま、似たような話をなぞっただけだった。お互いに、今は親元からは近くはないが、そう遠くない場所で暮らし、毎日を仕事に明け暮れながら、きっと充足した日常で、過不足なく生きている。
ちょうどその前日に、作家の高橋源一郎twitterで書いている「午前0時の小説ラジオ」を見た後だったので、その話を思い出しながら伝えた。お互いに、さて、一体どう振る舞って、立ち回って行くべきなのか。何となく腹に決めているのは、今のところ、まだ、しばらく当分は、帰るつもりはないという事だけで。じゃあ、いつか帰るのかと自身に問えば、明確な言葉をあててしまうのもなんだか怖いような心持ちの問題で。一つ言えるのは、現状の生活の延長線に、帰るという選択肢が、まだない。そして、もう一つ。生きていく上での体の内から出てくるエネルギーの問題は、それなりの場所でやれるだけやって、踊り続けて、解消したい。それは確かだ。選んだ生き方の問題と言ってしまえば、それだけだけど。でも、いつか僕も老いる。間違いなく。そして親は、それに輪をかけて。


高橋源一郎が先日の、午前0時の小説ラジオ「祝島で考えたこと」*1の以下抜粋。なんだろう、この読むたびにざわざわする感覚は。

祝島に来て、そこで静かに働き続ける老人たちを見て、ぼくは、ぼくが見ないようにしてきた、そこに戻ろうとは思わなかった、忘れようとしていた、曾祖母たちを思い出していた。着ている服、ひび割れた手のひら、陽にやけた顔つき、人懐こさ。どれも、ぼくが知っているものだった。

「帰っておいでよ」曾祖母たちは、よくそんなことをいっていた。でも、ぼくは戻らなかった。いろんなものをよく贈ってくれた。みんな、ダサかった。だから、両親に「こんなものいらないよ」といった怒られた。その人たちが死んだ時も戻らなかった。ぼくは、田舎を捨てたのである。

だが、「田舎」を捨てたのは、ぼくだけではないだろう。都市が田舎を、中央が地方を捨ててきたのだ。晩年、母親は「最後は田舎に戻りたい」といっていた。「お金は心配しないで」とぼくはいった。母親は淋しそうだった。そんなことは問題ではなかった。戻るべき田舎は消え去っていたから。

祝島は、幸福感に満ちあふれた場所だ。けれども、ぼくは、同時に、耐えられないほどの、深い後悔の気持に襲われ続けた。ぼくは、ただ恥ずかしかったのだ。ぼくが捨てた人たちのことを思い出さざるをえなかったから。


この後、最終的に高橋源一郎は、「ぼくはただ頭を垂れたい。なにに向ってかは、わからないにしても」と締めくくっている。それは本当に僕も、わからない。

*1:http://togetter.com/li/226465