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勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

「日本語教室」 井上ひさし

2001年から井上ひさしの母校上智大学で行われた4回の講演のまとめ本。すごく面白かった。

日本語教室 (新潮新書)

日本語教室 (新潮新書)


みんながなんとなく知りたいことを、わかりやすく、敷居の低い言葉で語ることの出来る人。そんな人が稀にいるけれど、尊敬する。
そもそも、日本語ってどういった起源で発生して、どういった変遷をしていったのか。そして現在、日本人として考える「英語」について。ちょっと抜粋させてもらいます。

日本語はいつ始まったのか。これはわかりませんね。証拠がまったくありません。考古学とか言語統計学とか、言語計量学とか、他のいろいろな学問から類推していくしかないということです。

その推測を、音韻から解読していったりして、紀元前1万年ぐらいのころ、日本列島が現在のような形の島々になったあたりで。音韻や母音の使い方からして、南のほう(インドネシアやタヒチ)から来てるんじゃないかと。
そしてとにかく、南のほうの、ヤマイモを育てている国からやって来たと。そう、ヤマイモなんです。

すぐれた文明を持った人は、必ず言語的にも勝利するのです。というのは、ヤマイモというのがないところへヤマイモを持ってくるわけですから、どうしたって、「ヤマイモ」という、外から来た言葉を使わざるをえないわけですね。このへんの理屈は、よくおわかりだと思います。

そうやって、語彙はどんどん入ってくるけれど、文法はなかなか入ってこないだとか、まぁいろいろあるようです。
で、ヤマイモから「稲」へ、つまり縄文から弥生に入るわけです。

稲は最高の作物です。ヤマイモなんか問題になりません。稲は保存がきくから、今度は、少し力のある人が、その稲を、籾(もみ)を集め始めます。これは今で言う「貯金」です。そうやって力を持った人はどんどん大きくなって豪族となります。

豪族は、さらに合従連衡を繰り返し、さらに大きくなって。結果、その最大の豪族が大和だと。そして、それが国になる。

すると、どうしても、ここには政治の言葉が必要になります。行政の言葉です。ところが、私たちの遠い祖先は、自分たちの言葉で政治の言葉をつくろうとはしなかったのです。
どうしたのかというと、当時の先進国である中国大陸から「律令」を持ってきたのです。「律」は刑法、「令」は行政ですね。単純に言ってしまうと、どういうふうにして税金を集めるかということです。

つまり「律令」という漢字の言葉が入ってきた。そして大事なもうひとつ。

国にはイデオロギーが必要です。こういう国を建てるんだという目標みたいなものがいる。何に価値を置くのかということです。これには世界観が必要ですから、仏教を持ってきました。仏教で、生まれたときから死ぬとき、死んだ後、すべて説明がつきますから、こんなすごい世界観は無いわけです。

それが仏教で、すでに全部漢語になっていて、そのまま漢字で入ってきた。できたての大和国家は、国の運営をしっかりするために、隣の文明国から様々なものを持ってきた。

律令」という行政システム。そして漢字。漢字が入ってくるとインテリが発生します。字があると、それを読めるか読めないかというのが問題になってきます。それで、留学生が出てくる。
中国に留学生が行って、これは日本の役に立つなと思うものを持って帰ってくるのです。漢字が読めるというのが、超インテリで、そういう人たちが、また日本語を変えていくわけです。明治維新のときとよく似ています。

ヤマイモからインテリまで、きれいに繋がりました。そして、諭吉や漱石のくだりはとばしまして、現在の標準語へ。

そして、政府(*明治政府)がつくった日本語というのが発生するのですが、近代国家に必要なものが少なくとも三つあります。一つは貨幣制度。二つ目は軍隊制度です。国民の軍隊を作る。三番目は言葉の統一です。近代国民国家は、まずこの三つをやるわけです。

というわけで、大急ぎでつくりあげたのが標準語だと。それぞれ方言丸出しの軍隊員をバッバッと動かす必要がある。それを効果的に広めたのがこれ。

社団法人日本放送協会(現NHK)の仕事は、実は、ラジオによって標準語を広めるという任務もあったんですよね。

そういったいろんな経緯を踏まえ、井上ひさしは「美しい日本語」などありえないという。

一人一人の日本語はあるんです。私の日本語はあります。でも、総和の日本語というのはありえないんですよ、実は。ですから、一人一人が日本語をきっちり、自分の日本語を、方言が入っていようがどうしようが、ものを正確に表現する、自分の気持ちを正確に相手に伝えられる、相手の言うことがちゃんとわかる−−−そういう言葉を、訛っていようがどうしようが、そういう言葉を使っていくこと、その総和が日本語ですから、宙に浮いたような日本語というのは実はないというふうに私は思っています。

そして現在。圧倒的なグローバリーぜーション(アメリカ化)は当然防ぎようがないという現状を認識した上で。
また、そもそも日本は常に世界で一番強い文明を勉強してきたのだと。古くは中国であり、明治維新の頃はヨーロッパであり、戦後は(今も続く)アメリカであり。
井上ひさしも、(色んな思いを抱えた上での)総意として、英語は必要だといっています。ただ、母語については勘違いをしないで欲しいと。そこは、しっかり認識しておいて欲しいと。

母語について確認しておきましょうね。母国語と母語は、まったく質が違います。
私たちの人間の脳は、生まれてから三年ぐらいの間にどんどん発達していきます。生まれた時の脳はだいたい350グラムで、成人、二十歳ぐらいでは1400グラムぐらいになります。ちょうど四倍ですね。四倍にもなるのに、なぜ頭蓋骨がバーンと破裂しないのかというと、脳はあらかじめ折りたたまれていて、泉門(せんもん)という隙間がちゃんとある。そこが発達していくから大丈夫なんです。
そんなふうにして、脳がどんどん育ていくときに、お母さんや愛情をもって世話をしてくれる人たちから聞いた言葉、それが母語です。

赤ん坊の脳はまっさらで、すべてを受け入れる用意がしてあります。ですから、日本で生まれても、まだ脳が発達していない前にアメリカに行って、アメリカ人に育てられると、アメリカ英語がその子の母語になります。赤ちゃんは、自分を一番愛してくれる人の言葉を吸い取って、学びながら、粘土みたいな脳を、細工していくわけです。

そういった前提の上で。母語は精神構造そのものに影響を与えるものだと。

言葉は道具ではないのです。
第二言語、第三言語は道具ですが、母語第一言語は道具ではありません。アメリカでは、二十世紀の前半に「言語は道具である」という考えが流行しました。アメリカの合理主義と相まって、一時期、世界を席巻しますけれども、やがてだんだんと、そうではない、母語は道具ではない、精神そのものであるということがわかってきます。母語を土台に、第二言語、第三言語を習得していくのです。
ですから結局は、その母語以内でしか別の言葉は習得できません。ここのところは言い方がちょっと難しいのですが、母語より大きい外国語は覚えられないということです。つまり、英語をちゃんと書いたり話したりするためには、英語より大きい母語が必要なのです。

ふむふむ。
とうに二十歳なんて通り過ぎた僕は、三十を過ぎてから英語を少しずつ学んでいる。すごく牛歩だけれど。これはまぁ、個人的に必要性を感じるから。
ただ、子どもがいると、英語も含め、幼児教育論に嫌でもさらされる。そんな時、僕は、なんだかうまく言い返せなくてもごもごしてしまうんだけれど、しびれを切らしたときに言ってるのは、「子どもに(例えば)英語をやれとか突き放すのが下手なんで(教育下手なので)、まずは自分がということで、いつか子どもと一緒にやろうと思ってんだよー」と。それが音楽であれ野球であれ何であれ。
そういえば先日、お風呂で4歳の息子が、「歩くはウォークで走るはラーン」と、どこで聞いてきたのか急に変な格好をしながら叫んだ。おい、それはどこで聞いたんだと聞いても一向に取り合ってくれなかったけれど、響きが面白いのか何度も言っていた。
こんなおちゃらけてばかりのわがまま息子が、果たして、いつか本当に一緒に勉強してくれるんだろうか。うーむ、正直、自信はない。。。