勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

「ブログ誕生」

今さらブログ?もうツイッターじゃねーの?という声を振り切って、この分厚い本を喧騒のど真ん中に投げ込んできた感じでしょうか。情熱、感じます。

ブログ誕生 ―総表現社会を切り拓いてきた人々とメディア

ブログ誕生 ―総表現社会を切り拓いてきた人々とメディア


原題はこちらですね。すぐに全部のカバーを外して読んじゃいます。

この書評と同時に約5ヶ月間の眠りから覚めブログの復活を果たした坂東(id:keitabando)さんにならって書きます。僕も書評(いや、感想文)なんて随分久しぶりです。しかし坂東さん、これから頻繁に更新されるんでしょうねぇ・・・あ、あれ。

ま、とりあえず、ほっときましょうw 
閑話休題。
この本を(僕の勝手な視点で)説明するならば、今から約15年前にアメリカで産声をあげた「ブログ」が、あの2001年9.11を経て、凄まじい勢いで発展し、メディアやジャーナリズムを巻き込み、2004年辺りから当然息切れし、それでも個人はいたる所で発信し続け、2006年に出てきた今やメインストリームとなりつつあるtwitterや、facebook等のSNSと併走してきたブログ。その現在に至るまでの系譜を個人レベルで紐解きながら、著者の体験談や豊富な事例を挙げた上で、それでもブログって今後も「個人」にとって必要なのかな?と問う本です。そう、公(おおやけ)の個ではなく、それぞれひとりの個人にとって。
では、感想や個人的な思いを交え、いくつか引用しながら書いていこうと思います。
まず、今も昔もブログが公ではなく個であったという事例のひとつで、そのブロガー同士の会話がブログの存在意義的なものをとてもうまく物語っている箇所があるので引用。存在意義ってこういうことかもね、という気もします。2002年にアメリカが大量破壊兵器の大義名分でイラク侵攻したが見つからず、それを手伝ったメディアが責任のなすりつけ合いをしていた頃の皮肉った話。第9章の「ジャーナリスト対ブロガー」より。

(ミーガン)そうね、それでは、いたったいいつになったら、ブロガーが本物のジャーナリスト並みの倫理観を持つようになると思うの?
(アナ)ばかげた戦争へと国をミスリードできるだけのパワーを持ったら、でしょうね。

僕は、お金の流れが可視化できる場所では、ひとが総崩れ的に動くうねりは起こりえないと思っている。つまり、妙に気持ち悪い説得力を持つ言葉が飛んでくる場所の、その土壌はいつも複雑にお金(や利権)が絡んでいる。3人以上集まった個人レベルでもそれは起こりうる。その点、ブログは可視化どころか無料なのだ。そこにあるのは、書く労力だけ。その上「あなた、別に来なくてもいいんだからね」なんて突き放しもする。ややこしく面倒くさい「人間」の匂いがする。また静的で、ひっそりしてて、人が通れば風が吹く。だからこそ、ある意味ブログそれ自体は、ここで言うところの「パワー」を持ちえないんじゃないかと思っている。良かれ、悪かれ。
でも、だったらそもそも個人の書くブログとは何ぞや、という疑問はある。その解となるんじゃないかという部分が本書にいくつかあって、それらを第11章の「未来につながるかけら」より引用。

言論の自由を支えるパワフルなエンジンであり、個人の自主性と集団の空気のシーソーを支える支点であるのだ。ブログは書くことと読むことの両方にまたがっている。書き手が望む割合で公私を取り混ぜることも、社交性と孤立を取り混ぜることもできる。ウェブで自己表現する方法はほかにもたくさんあるし、今となってはブログが一番簡単な方法というわけでもなくなってきた。しかし今も一番興味深い方法でありつづけている。自分の思うことを語るとともに、他の人々の思いとブレンドできる。その力がブログほど強い方法はほかにない。

個人の自主性と集団の空気のシーソーを支える支点としてのブログ。なんて上手い事を言うんだろう。その支点こそが個性だよなとも思う。そして、

たしかにブログは断片的だが、優れたブログの場合、雑多な切れ端の寄せ集めにはなっていない。まともなブログが提供するのは、視点である。

そう。読み手としての僕は、書かれた内容以上に、その人の立ち居地や視点に興味があるのだ。それは、会ってちょっと話すだけでは推し量れない部分でもあるから。そういった意味では、ブログとは、やっぱり興味深いよなと思う。情報よりも個としての、複数の言葉から透けて見える視点。また、書き続けることもそうだけれど、ブログを引っ越したり、閉鎖したり、再開したり。

実のところブロガーがブログを書く歴史は、ブログを「やめる」歴史でもある。


最後に。
エピローグから著者の本音を引用。ブログを書く流儀と、書く理由について。シンプルかつ明快です。

すべてを語ろうとすればどうなるのか、ある程度は明らかとなった。個人が自己顕示の情熱に突き動かされるとすべてを語ろうとしてしまい、ほぼまちがいなく破滅へと突きすすむ。公開でものを書く場合、生活のあちこちに境界線を引かなければならない。それが礼儀だとかいう話ではなく、円満な私生活を送るためにはある程度のプライバシーが必要だからだ。

その上で、色んな制約を勝手に自分に設けてまで書く理由。

自分は公人ではない。その自分が政治的立場の変転や私生活の浮き沈みを記録して、何か意味があるのか。そう思う人もいるだろう。意味は、ある。自分自身を深く知ることができるのだ。たまたま記事を読んだ人とつながりができるという価値もある。

僕にとっても、書く行為の意味なんてそんなものだ。お金も生まないし。でも、それが労力を遥かに超えて楽しい時がある(事実、あった)。
だから、なんとか食い下がって、細々とでも書ける間は書くだけなのだ。