勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

人の存在感

急遽78歳で天寿を全うした親戚のおば(あ)さんのお通夜とお葬式で2日ほど実家に滞在。
僕の中ではそのおばさん、昔から、悪気は無いんだろうけれどちょっと意地も口も悪く子供ながらに「憎たらしいなぁ」と感じていた人(きっと僕が生意気なガキだったから)。ここ数年は体調を崩したりして、元気はなくなっていたけれど、性格がなんだか丸くなって温厚なおばさんになっていた。


生きている時よりもどうして死んでからのほうが存在感が圧倒的なんだろうか、と、滞りなく進んでいく一連の法要の中でおばさんの思い出を探しながら、そして、この人のことをこんなに思っている人がいるんだよな、という当たり前のことを生前にはなぜ分からない/分かろうとしないんだろうかと自問しながら、和尚さんのお経の途中でこくりと眠くなる自分。
その人のことを、普段は口には出さないけれど大切に思っている人達がいて、その想いを知って、初めて僕の中でのその人を形作っていくのかもしれないなと。そうすると、僕がその人の存在感を一番分かる時は、こういう場でしかないのか、と考えるとなんだかそんな自分が嫌になってくる。そう考えることも馬鹿みたいに思えてくる。
でも、人はその人個人では本当に見ることができない、関わる人達の想いがあってこそ‘その人’なんだと分からないのは、きっと生きていることが当たり前という勝手な前提の中で、いくつもの色眼鏡を駆使しながら楽な主観でしか人を見ていないからだろうな、と。その人の後ろ側も見ようと努めるべきだよなと。


集まった親族の方たちと話をしながら、結局その人が人とどう接してきたのか、という単純な日々の行為こそがその人の‘語りうる全て’であり、僕にとってもやっぱりそれしか残っていない。日々の積み重ねは本当にはかり知れない。


さようなら、おばさん。楽になってよかったね。僕も人に(できる限り)真心こめて接します。忘れそうになったら気付かせてください。
ありがとう。合掌。