勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

業を肯定すること

立川談志が落語を語る上で必ず出てくるのがこの「人間の業を肯定する」という言葉。
どういった意味で言ってるのかといえば先日の談春の「赤めだか」にも載ってました。今手元にないので(立ち読みで済ませたから)正確な引用ではありませんがこういうことです。超意訳(勝手訳)しますが、
忠臣蔵での赤穂の浪士って実は300人以上はいたはずで、その中の47人の勇敢な武士の話が美談として語り継がれている訳。でも落語ってのは赤穂の武士で言えば行かずに逃げたり行くことの出来なかったその他大勢の生活に焦点をあてていて、もちろん行かなかったことで後ろ指差されたりした武士の人生もあったわけで、そっち側の人生を淡々と描き出すものなんだ。だからある意味、落語は‘癖’になる。あんまりはまりすぎちゃいけないってことも言える」
ということだ。談志の「芝浜」は、妻は最後にウソを隠しておいた旦那への言い訳として泣きながらも「だって大家さんがね・・・」と連呼しながら大家さんのせいにしようとする。その切羽詰った切なさったらない。痛いほど気持ちが伝わってくる。
最近どうにもこの「業を肯定する」という生き方についてどっかで引っかかったものを抱いていて/考えをめぐらしていて、思い出すのは三上さんのことだ。
昨年末のシュンポシオン横浜の後夜祭?で、深夜の中華街にて話をさせてもらった時の三上さんの言葉は、まさにそういうことだったんじゃないかと勝手に納得している。

三上のブログ 「横浜郷愁3」
 http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20081222/1229959434

業を肯定する、なんてことは、言葉以上に難しい。深い懐と人間臭さを笑い飛ばせる愛と覚悟がなければ肯定できない。
なんでこんなことをぶつぶつ思っているのかといえば、日々色んなことに腹を立てている自分がいて(娑婆とはかくも腹立つことばかりナリ)、勝手に色んなことに腹を立てている自分が「アホだよな、なってないよな」と腹立ち後に思うからで、結局、業を肯定できるほどの器が備わっていないことに対して途方にくれるわけです。また、自分はどっち向きで仕事をしてるんだ、とかバカの壁を勝手に作ってふと気持ちが立ち止まったりするわけです。気持ちが振り切れていないときはダメですね。


あれ、不思議と気分も落ち着いてきましたよ、書いてて器が大きくなった(気がしてる)んでしょうか。なんだか腹立ててたみんなを許せるぞ(笑)。うーむ、ブログっていいですね。