勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

継続可能な範囲の物事に取り組むこと

今年32歳の自分にとって、(あくまで)現時点での人生の優先順位がぼんやり見えつつある中で、継続できうる最大限の範囲で動くことができたらと思う。
長い(短い)人生において、その都度プライオリティを付けていくことは実に難しいけれど、言い方は悪いが‘外堀が埋まっていく’と自然とその行為は発生する。むしろその‘外堀’が強固なほどプライオリティは付けやすくなる。そこを積極的に自覚するかどうかの問題はあるにせよ。
つまり、思いつく例えばの話だが、結婚して相手のある生活を送ること、子供ができれば約20年に渡って育てあげること、ある地域にしばらく住むと決めること、仕事の役職が結構不動のものとなること、または家族における諸々の問題の噴出、など個人差はあるにせよ、生きるということはそうやって嫌でも外堀が埋まってくるものだと思う。ここではその良し悪しは置いといて。
で、例えばだけど、僕自身が誰かに対して今できる事、やりたいこと、または自分が将来へ向けてのなりたい人物像みたいなものがあるとして(きっとある)、今の生活に添った形のことしか継続できないし、継続できないことはきっと意味がない。
つまり、僕自身がよく無力感に襲われる出来事として、今盛んに報道されている世界での自然災害や、紛争、そしてチベット問題などに対して、それを聞くたびに今の自分の立ち居地がなんとも居心地が悪くなってくるし、それについて語る言葉を持たない自分が情けなくなってくる。
それは思うに、‘物理的なことで何かをしてあげられない’という無力感(それも大いにあるけれど)ではなくて、‘そのことについて語る言葉を持っていない’という精神的なことが一番の問題なんだと思う。
個人としての在り方、社会にたいしての在り方、家族に対しての在り方、その自分の望む形で‘在りたい自分’でいるためには、今自分の生活レベルに添った形で事を起こすしか、形作られていくのは難しいのではないかということ。一時的にパッと行動を起こしたとしても、それが今の生活に沿ってなければ続かないし、結果身にも付かない。
梅田さんが言う「30歳から45歳までを無自覚で過ごすな」という言葉は、ある程度外堀が作られてしまった人間(これはまさしく僕だ)に対しての「ゆるい救難信号」じゃないかと勝手に捉えている。
数週間前の‘ほぼ日’で、吉本隆明さんが先生と教育について語っているのだが、本質としては‘人としての望ましい在り方’について語っている。(と勝手にそう読み込んでいる)

帰するところ、最も重要なことは何かといったら、
自分と、自分が理想と考えてる自分との、その間の問答です。
「外」じゃないですよ。つまり、人とのコミュニケーションじゃないんです。
(中略)
自分と、自分が理想と考えるもの、そことの内的な問答がいちばん大切なんです。
(中略)
問答の道の行き帰りの回数が多くなればなるほど、そこが豊かになります。
それは、最も価値あることです。
(中略)
問答の道を豊かにくり返している先生が、ただ自然に振る舞っていること、それが子どもにはいちばんいいんです。


「日本のこども」(http://www.1101.com/nihonnokodomo/2008-05-02.html

一人の人間として、夫として、親として、そして子供として、‘こう在りたい自分’に少しでも近づいていくことができればいいのにな、と切に願う。