勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

「爆笑問題×京大 独創力!」〜その2〜

番組も面白かったんだけれど、ディレクターとプロデューサーの放送後の編集後記があまりにもすばらしいのでまとめたい。
これを読むと、創り手の強い意思がはっきりとわかる。きっと志の高い人なんだろう。

ディレクター観戦後記

ディレクターは、京大界隈にはすばらしい精神が潜んでいるのでは?という切り口から展開する。

「『好きにしはったらええんちゃいます?』が、ここの不文律なんだなぁ」これが‘京大界隈の方々‘に対して抱いた最初の印象です。
(中略)
今思うのは、『好きにしはったらええんちゃいます?』という精神の根底には、‘京大界隈の方々’の独自の人間観が潜んでいるんじゃないか、ということです。

それはすなわち「その人なりの環境との折り合いの付け方こそ、その人そのものなんだ」という考え方なんだと思います。これには同時に、世の中というのは諸行無常で自分ではどうにもならないものだというあきらめが秘められているようにも感じます。
それはどういうことかと言えば、社会と付き合うのは必要悪で仕方ないから付き合うしかない。しかし、だからこそ、自分の内面的な自由をより一層大切にする。
僕が出会った人々は実際、‘自分の人生’と‘自分が関わらなければならないこと’とのバランスをとるのがうまいなぁと感じさせる人達でした。
つまりこの界隈では、人間を大切にするということは、その人の内面の自由を尊重することなんだと思うのです。そのことを口に出して表現するならば『好きにしはったらええんちゃいます?』ということになるのでしょう。

‘折り合いを付ける’ということがどういうことなのか、こんなに上手に書けるものなんだと感心した。
社会との接し方として、一つの公式(解決策)ではないかと思う。


プロデューサー編集後記

プロデューサーは、人間と人間がワーっと夢中で話すことのインパクトについて太田が語った(*昨日のエントリにあり)の受けて、20数年前のある日の思い出を語りだす。

1985年×月×日@東大駒場教養学部・・・。この日も不思議な熱気に満ちていたのです。
まったく個人的な回想で申し訳ありませんが、この「爆笑問題のニッポンの教養」の発想の原点は、20数年前の私自身の東大駒場キャンパスでの経験にあります。
もぐりこんで受けた講義は、なんとも形容を拒む、不思議な空気。やってることはある意味難解、しかしなんとなく感覚的にはよくわかるのです。自らの思いを体中から発散させ、もどかしそうに言葉を連ね続ける壇上の男・・・、いい歳をして、ある事象にとり憑かれたか如く、夢中で理論を語る「パンク」教授・・・。そうした姿に、やがて、シンガーのライブ以上のパッションを感じ、学問というものの凄みと、下手をすれば反社会的な後ろめたさを感じ始める・・・。

こんないい歳をした男を夢中にさせるだけの何かが、この不可思議な学問という世界にはあるらしい・・・、それはもう直感、動物的勘としか言いようがありませんでした。そして、なんとかこの自分が感じた想い、この感覚を、大学という壁で囲まれた「聖」地から解き放ちたい、そして、もしかしたら、大学に縁は無くともむしろ直感には長けた人々、はるかに知の可能性の中心に近い人々に届くかたちにしてみたい・・・。そんな想いを密かに煮詰めていくに十分な経験だったのです。

学問の凄み。なんともすごい言葉だ。その凄みをテレビを通じて開放しようとしているのならば、今回の放送は間違いなく僕には届いた。
京大という聖地から、片田舎の僕のうちまで。