勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

「慰安婦問題」などを扱うこと

正直怖くて、あまり触れたくない問題でもある。
なぜなら、そこの知識が乏しいがゆえうまく言葉に出来うるか自信がないし、また国内外の政治問題として密接に絡んでいること、つまり日本的な右翼・左翼のどちらからも(日本はどちらかに分けたがるので)批判的な感想を受けることが目に見えているからだ。
このブログは匿名として書いているにもかかわらず、「慰安婦」とここに書くだけで勇気がいる。
匿名の僕でさえそんな気持ちを持っているのに、実名ブログの人たちの勇気には本当に感心する。矢面に立つことは、立った人間にしか分からない苦労があるのだろうから。
僕なりの「慰安婦問題」に対して思うこと。
敗戦国は圧倒的不利のもと、戦勝国側に裁かれる。これは戦争の掟。旧日本軍が行った行為の中で「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」はまさにその格好の的だ。全体としての事実は当然あったことなら認めるべきだが、その規模や中身に対しては責任を持って事実確認を徹底して行い、諸外国に対しては毅然とした対応で臨んで欲しい。後世のためにも。
これも東京裁判と同じように、「慰安婦問題」も政争の具としての扱いばかりで右往左往するのではなく、日本人として「つい約60年前の戦争」について、怖がらずに一人一人が自分の言葉を使って発言していくべきだし、それをある程度許せる‘風土’作りが大事なんじゃないかと思う。
正しい意見を言うことではなく、個人の意見を言うことが何よりも大事なんだから。(そもそも正しい意見なんてあるのだろうか?)
憲法九条を世界遺産に」(太田光中沢新一)でもあったが、だれかが一言「慰安婦問題は歪んだ事実で進行している」などと口に出して意見を言おうものなら、その発言者は‘言語危険地帯’の最前線にあっという間に立たされて、援護射撃を撃ってくれる人も現れず、ポツンと孤立する、日本の今のメディアはまさにそんな光景が当たり前のようになっている。

怖がらず、自分の言葉で世界を語ろう。