抽象的な家族の話
日々、色んなことがあります。誰にも、当然ですが。
タイムリーに自分の想いや出来事を親密さをもって誰かに伝えることが出来るという人生の形をとろうと思えばどうすればいいのか、と個人的に考え続けた延長線上に、僕にとっては一つ、その大きな超えるべき山として結婚というものがありました。もちろん人それぞれですが、それは僕にとっての一つ大きな超えたかった山だと思います。
ん、そんな山の話は置いといて。
最近、家族という親族というか、それについて考えることや関わることが多く、歳と共になのか、僕の生き方の傾向のせいなのか、都度やるべき/すべき/目指すべき優先順位が微妙に変わっております。
家族って、その形って、やっぱり凄いなと。
最近(親族とは全然関係のない)人たちの話の物語が凄く、身に染みながら人生を考えさせられています。粛々と日常をこなす方達の話はズンと腑に響きます。
日常的に。
その時に言えることと、事後報告の様にしか言えないことが人生にはありますが、その時に言えなかったことは、結局それがのちに言えたとしても、言えなかった「それ」を含めた自分として飲み込み毎日を過ごしているので、「それ」はいつしか自分のものとして内包していて、やっと人に伝えることができるという過程をとる時には、使用前使用後のようにもはや「人」が違う。つまり、「それ」が自分のものとしてどれだけ包めたかどうかで人生も人格も全然変わってくるんだろうなと思います。
内容が、抽象的というか支離滅裂でした。無念。
春が近いようでまだまだ遠いですね。しかし、じきに息子はピカピカの一年生です。