勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

村上活字中毒

世間は村上春樹1Q84(3)の発売で沸いているようで、これほどまでに読まれる作家になるなんてほとんどの人がびっくりしてるんじゃないかと思う。広告戦略と言ってしまえばそれまでだけど。先日の朝日新聞に、太宰治が「この人の心情は自分にしかわからない」と思わせる作家であったことを引き合いに出して、村上春樹は「この人の物語の世界を分かるのは自分しかいない」と思わせる作家であろう、なんていうことを誰かが書いていた。ふむふむ、わかるような、わからないような感じである。かつて村上春樹は良い作家の条件の一つとして、書き手が読み手に「兄ちゃん、もう一本打ったろか?」と活字でドラッグ中毒にさせるようなことができればそれは良い作家かもしれない、と書いていて、その例えの危うさと上手さにドキッとした覚えがある。15年程前の僕は間違いなく村上春樹の活字に酔いしれたジャンキーだった。どこの本屋に寄っても間違いなくマ行からチェックしてたし、まだ読んでいない本は無いかとその村上棚を確認し「あっ!」と発見しては迷うことなく購入した。学生時代の僕は、どんなことであれ村上春樹に語って欲しかったのだ。取り上げる素材は何でもいい、何でもいいから活字にしてくれ、それが無理なら「やれやれ」をくれ、と。そう、完全に中毒だった。今でも身体が覚えた村上活字による陶酔感は簡単に抜けきれるものではなく中年に差し掛かっても村上本から発する「兄ちゃん、もう一本打ったろか」という甘い声に誘われてついつい手が伸びてしまう。しかし、僕は1Q84を未だに購入していない。一つは色んなタイミングの問題もあるけれど、とにかくハードカバーが苦手なのだ。重さと厚さと大袈裟さに一人うんざりする。周りに言っても賛同されたことがないので僕が間違っているのは分かっているんだけれど。それでもハードカバーへの苦手さは年々増すばかり。こうやって文庫になるまでのんびりと待てるようになったのは、もちろんただ歳を取ったから。そしてあるとすれば、「物語」は逃げないという事実に気づいたからだ。物事には順序なんて無いさ、と。
しかしこれだけは最初に書くべきだったかもしれない。僕は今、すごく1Q84が読みたいのだ。