勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

文字を綴る

久しぶりの更新。わずらわしい日常業務に追われて「腰を据えて文字を書く」ということから逃げていただけなんですが、気軽なtwitterには咳をするようにぼそぼそと呟いておりました。
このブログをはじめてから数名の友人にお誘いいただいた好意に甘え、世間一般でSNSといわれるmixi,twitter,facebookと登録しflickrなど写真共有はここでは除いて)、はたと気が付いてみれば残ったのはtwitterだけ、という状況です。mixifacebookは別にそうしたいわけじゃないんですが閉店ガラガラ状態です。まぁこれは僕の好みや付き合い方の尺度の問題なのですが。
で、今でも蚊の鳴くよな声で呟いているtwitterのことなんですが(←病人か)、文字を綴ること=人格が出る、ということをtwitterは上手く‘かわしている’なと感じます。140文字の制限をありがたいものとしてユーザーが賛同する理由の一端じゃないかとさえ思うんですが、つまり文字を綴る上で自分の人格を出さなくて済む字数でポストできることが何より気軽さを誘うんですよね。文字という視覚で追う言葉もある程度長くなれば書き手の人格を必ず伴う、と僕は個人的に思ってますのでそういった意味ではtwitterというサービスが物理的に使いやすい(iPhoneからすぐだしとか)ということよりも人格を取り繕うわずらわしさを差っぴいてくれる、という所が決め手じゃないかと思います。あくまでも僕にとっては。
その上でフォローしたい人を好きなように選べるわけですし、他にもニュース配信を読むとか友人とのゆるい連絡手段や「おーい、元気にしてるの」的な使い勝手もありますし。便利ですよね。
こうやってブログでこの辺まで書いてくると「はて、自分のことをどう思われてるんだろ、物事の一側面からの意見だろ、お前何様だ!」なんてことが頭の片隅でもぞもぞっと動くんですが、twitterってその手前で終わるかそれを最小限に抑えてくれるんで頭が「疲れない」んですよね。そう、文字を綴るって基本的に疲れるんですよね。褒めてくれることを決して約束されていないから。その上でいつも人格を試されているようで。そもそも人格ってやつが留まることなんてなくて、いつも揺れ動いているんで厄介なんですよね。それなのに書くときに限っては留まってなきゃいけないわけですから。
ちょっと大袈裟なんですが、そう思います。


では、文字を綴らなくても毎日が人格丸出しな息子の写真でお別れをします(なんじゃそりゃ