自由意志という強固な幻想
久しぶりに茂木さんの「クオリア日記」を覗きに行く。
そして、新書「人は死ぬから生きられる」の宣伝だなと思いつつ読み進めていたエントリーの、そのまえがきの抜粋にしばらく目を奪われた。
- 作者: 茂木健一郎,南直哉
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2009/04
- メディア: 新書
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そこで禅僧の南直哉さんという人を始めて知る。そしてその人の振る舞い/放つ言葉の覚悟に感心した。
以下その茂木さんの邂逅の抜粋。
もっとも心に残ったことの一つが、南さんが九十五歳のおばあちゃんと交わしたという会話である。「和尚さん、死んだら私は良いところへ行けますか」とおばあちゃんに尋ねられて、南さんは「極楽に行ける」と答える。本来、仏教思想の根本は、霊魂や死後の世界の存在については「答えない」という「無記」を貫くことにある。それでも、南さんは目の前のおばあちゃんに「極楽に生ける」と答える。「行けるに決まってるじゃないの。こんなに努力して、一生懸命がんばったおばあちゃんが良いところへ行かなくて、どこに行くんだ。」と言葉をかけるのである。
「ここには、私たちが生きるということ、その中で思想を抱くということにかかわる、よほどの難問題が横たわっている」と茂木さんが続ける。そのとおり、その会話の背景を鑑み語る言葉を僕は持っていない。たぶん中途半端な笑顔を向けたりして逃げるのかもしれない。
そして、
「おばあちゃんと話しているときの、存在する、しないということの判断基準をどこに求めるのかは、おばあちゃんと僕だけで決定しちゃいけない理由はないと思うようになったんです。」と南さんは言う。「それでは、その決定の責任はどこにあるのか――。言った人間、つまり私ですよ。」と南さんは続ける。「もし普遍的かつ絶対的な基準がどこかにあって、仏教で間違ったことを言ったら地獄に落ちると決まっているとするならば、落ちる覚悟で言わないといけない。仏教者というのはそういう立場にある人間だと思うんです。」
これは仏教者という、既存の枠組みのある立場(別にそれが会社員であれ何であれ)を一人の人間の強固な幻想が超えてしまったという事実じゃないかと思う。違うだろうか。
むぅ、こんなまえがき読まされちゃ買うしかないじゃないか、まったく。