勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

すべては動き続ける

個人で生きているようでも、(気が付いたら)色んな仕組みや枠組みの中で‘確信犯的’に生きていて、しかもその仕組みや枠組みが意外に心強い(守られてる)ことに対して、知らんぷりしてるよな、と気付かされた。一種の依存の感覚に近いのかな?
この二冊を平行して読書中のこと。明治から昭和初期に想いを馳せながら。

座右の諭吉 才能より決断 (光文社新書)

座右の諭吉 才能より決断 (光文社新書)


悪人正機 (新潮文庫)

悪人正機 (新潮文庫)


そのうちの1冊「悪人正機」の中で、吉本隆明さんが‘挫折’について「挫折なんて、しないならしないでいいですよね。というかできないわけですからね」とさらっと語る中で、自らの体験を語る。
それは戦争が終わった時に自身に起こったこと。長いけど引用します。


終戦の日って晴れてたんですが、その、晴れてることもおかしいんじゃねえか、とさえ思ったくらいです。
<中略>
終戦を告げる「玉音放送」があったんです。当時、勤労動員で地方の会社にいたんですけど、その日は何だか大事な放送があるから必ず聴けってことで、門の近くの広場に集まった。
<中略>
何を言ってるんだかわかんねえ、わかんねえんだけど、よくよく聴いてたら「あ、これは戦争に負けたんだ」ってわかったんですよ。
それでもう、早速、寮に帰って、自分の部屋に入ったとたんにワーッて泣き出しちゃったんですね。
<中略>
もう一瞬にしてっていうか、玉音放送を聴いた前とあとでは雰囲気がまったく変わっちゃってね。晴れてるのもおかしい、まともな顔をしてるのもおかしいって、そういう感じになったんです。
そういう気持ちは、しばらく続きましたね。友だちが三人ばかり一緒にいましたから、だんだんと、普通どおり冗談を言い合っていたんだけど、普通だったら笑うところでも「これを笑うのはおかしいんじゃないか」っていうふうになってて、そのまま抑えちゃったりね。


−「挫折」ってなんだ?−

内容が内容なので、大袈裟なはなしのようで、でも実は誰にでもある、何だかすごい身近に起こる出来事の一端のようで。
たぶん、勇気をもって?勝手に誤読させてもらえば、吉本さんは、国という‘枠組み’の中で、日本という‘仕組み’を知らず知らずのうちに自分の身体の一部として(結構な範囲かもしれない)取り込んでいたために、このようなことが起こったのかもしれないな、と。あの吉本さんでも、だ。それが良いとか悪いとかの問題じゃなく。
つまり、国(枠組み)や日本(仕組み)は、家族や地域や企業や自治体や友だちや、すべてにおいて存在してて(時代も関係なく)、知らずに、もっといくと盲目的に、深く依存しちゃ(取り込みすぎちゃ)いけないんだよ、ちゃんと立ち居地を俯瞰的に見なきゃダメだよ、ってことが、その文章から聴こえてくる。でも、別にそれが一概に悪いことではなく、むしろ属してみることでこんな妙な経験が積めることもあるよ、と。
あくまでも勝手な誤読の上で。
すべては動いていて、止まる枠組みなんてないのだから。でも、このことは、実はとても怖いこと。枠組みや仕組みが止まってくれてたらどれだけ楽か。だから、止まったモノとしてウソをつく。で、その齟齬が決定的な溝を生む。
「税金払ってんだからさぁ」と、根っこのない思想でモノを言っちゃダメなんですね(これは僕だ)。鳥のようにちょっと高く舞い上がって、自分の立ち居地と、その置かれた環境(枠組み)について、俯瞰的に眺めることのできる、そんな男になりたいな。スーパーマンみたいだけれど。