勇気と想像力、そして少々のお金

きれいごとを言わない、をモットーにしてますが、時折言ってます。

実用の学問としての文学

ほぼ日刊イトイ新聞ダーリンコラム(糸井さんのコラム)より。
始めて拝見したのだが、ただただ「その通り!」、と言いたくなるような、本気で素敵なコラムだった。
前文を書き写したいのだが、少々長いので勝手に抜粋。

(中略)
読み書きそろばん、という学問は、たしかに実用に役立つということはわかる。
さらに言えば、世の中に出ているさまざまなビジネス書だとか、自己啓発書だとか、技術書だとか、指南書だとか、ま、いろんな本が実用書と考えられている。

そして、芸術全般がもちろんそうなのだけれど、文学というものは、非実用の学問だということになっている。

だけれど、人が、いちばん知りたいことは、人間のことである。
人間が、どういうときに、どういうことを思うか。
どんなことがあると、どういう考えになったりするか。
どういう状況のときに、どんな行動をとるのか。
思っているけれど、本人にはうまく言えないこととは、どういうようなことなのか。

そんなことについて、文学のなかにはたくさん書かれている。
若いときの、若い人の気持ち。
年を取った人の、年を取るまでは表われなかった心理。
女と男の、たがいに理解しにくい心のやりとり。
きれいなこと、きたないこと、
意思、興味、無関心。


(中略)


小説ばかり読んでいたって、実際のことはわからない。
そういう言い方もあるのはわかるし、そのとおりだと、実は、ぼくも思う。
でも、人間の考えることのパターンが、いくつもあるんだと知っているだけでも、勉強の成果としては十分なのではないだろうか。

いろんな集団があるけれど、文学を好きで、ある程度の本を読んできた人たちは、会話のなかで、「信じられない」とか、「ありえない」とか言う回数が少ないと思う。
ほんとうに人間というやつは、気持ちや考え、欲望や夢に、ものすごく豊かヴァリエーションを持っている。
そういうことを、小説のなかで知っている人は、そう簡単に「信じられなーい」とは、言えないだろう。

すぐれた経済学については、知らないけれど、おおむね経済の学問をしてきた人は、「とりあえず人間は 利益の大きいほうに向かって行動する」という法則で、人間のほとんどすべての行動を考えようとする。
しかし、文学のなかの人間は、少なからず「利益の小さいほうに向かって行動する」ことがある。
どっちが正しいか、論争をする気は、ぼくにはない。
どちらが豊かな人間理解であるか、ならば、明らかだ。
経済の学では、おかしなことだということになる文学のなかの人間の行動のほうが、人間の可能性を豊かにとらえている。
ぼくは、そう思う。

人間は、人間とつきあい、人間のことを考え、人間を理解しようとし、人間に頼み事をし、人間を利用したり、人間をよろこばせたりしながら、生きていくものだ。
だとしたら、人間のことをわかるためにすることは、いちばん大事かもしれない学びではないのか。


(中略)


人間がどうのこうのよりも、お話のゲームを楽しむために書かれた小説はあるし、それはそれで、遊びとして豊かに実ればいいことなのだけれど、「人間は、人間のことをいちばん知りたいんだ」ということがわかるなら、遊びにはならないかもしれないけれど、『カラマーゾフの兄弟』を、我慢して読んだっていいんじゃないかな

糸井さん、あなたは素敵です。